珍しく1年以上も続いていたバイトをやめる

この間、やめるって言ってきちゃった〜今月でおわり。

 

大学卒業まで続けるのかなって思ってたけど、結論、環境は不変ではなくて、自分の中でデメリットがメリットを上回ったからっていうのもあるし、新しいことをしてみたいっていう気持ちあるのが一番大きな理由かな。

 

入った当初からあれ?って思うことはあったけど、個人経営の販売だからか待機している時間が割と長く、基本ゆったりしているところがわたしには合っていたと思う。あとはもともと人と会話できるバイトをしたかったから、そこも合っているポイントだった。飲食店をやったこともあったけど、わたしがいたところはオーダーを取る以外にお客さんとの会話が意外と少なく、思ってたのと違うなーと思って何ヶ月かやって辞めた。

 

今のバイトを始めてあれ?って思ってたことは、フルタイムで入ってる他の従業員に過剰に期待され、(もちろん同じ時間入っているわけではないから)応えることができないときは裏切られたような態度を割と頻繁にされたこと、たまたまこちらの方が売り上げているときには不機嫌になること、店長はフルタイムの従業員の肩を持つスタンスを崩す気がないから従業員同士の会話が多い割に風通しが悪いところ。入る時間が長い人を優遇するのは当然だろうけど。

 

全部まあいっかって思えるくらい、お客さんと会話して販売する業務が楽しかったから続けていたけど。フルの方の主張が、入った当初は正論9割わがまま1割だったのが、正論6割わがまま4割くらいになって、さすがにこんなことが横行する環境はまずいだろって思って、次の出勤日にはやめたいって言っちゃった。

 

正論で否定されたら、それはごもっとも、申し訳ないって思うけど、ただの自己中で否定されてものそんなもん通るわけがないだろって(笑)自分のせいだーって思わないこともなかったけど、わたしはその人の家族じゃあるまいし、わがままを全部はいはいって聞くことはできなかったな。

 

そんなこんなで小さな不満はずっとあったけど言ったところで雰囲気が悪くなっても嫌だし、ずっと居るわけでもないし、言わなくても耐えられるくらいだしって思ってたからここまで続けてきたわけだし、これからも続けなきゃ死ぬなら全然続けられたけど、求人情報を見始めたらまだやってないことがたくさんあって、いろんな可能性があるかもしれないんだーって思ったらここにいることにこだわる必要もないなって思って。もし就職できて大学を卒業してしまえば、今みたいに職種を色々経験することもできないだろうし。だから今はいろいろ探してる段階。これを機に長期インターンをやるのも手だし。受かればの話だけど。次のバイト先を決めずにやめるの初めてだな〜、本当に見つからなかったら、前のところだけど、円満にやめてまた短期でも戻っていいことになっているところにしばらくいようかな。

嫌悪2

決めつけの場面に遭遇すると、あーあって思う。決めつけられた人の本意は汲まれてないし、決めつけた本人は決めつけられた人が傷ついても痛くも痒くもないし。勝手に、このご時世決めつけする人なんていないって期待してる自分が馬鹿みたいって思うし。深く考えもせずに狭い視野の中にあるものだけ守って見えてない視点や価値観はバッサリ切るのはあまりよろしくない。これはこうっていろんな物事を決めつけるのは、歯に衣着せぬ物言いだと捉えられることも多くてかっこいいことだと思われてたりもするけど、本当は必ずしもかっこいいわけではないよ。過去の自分はまじでこれだったけど、今まで色んな価値観の人と話してみてわかったことは、決めつけを口走ると相手が自分に話さず本心の一部について話すのをやめてしまうということ。そりゃわかってないなって人に話すほどみんな馬鹿じゃないよね、みんな傷つきたくないし。

 

すぐイライラする人と、何も考えずに負の決めつけ(否定)をする人は、どちらも負の感情を表に出してるから最初は差別化できなくて困ってたけど、今は全然違うと思う。イライラする事が多い人は、大事にしてるものが多い人。大事にしてることにもよるけど、結構好感持てたりする。気をつけたほうがいいなって思うのは、イライラの感情自体が苦手な人からしたら怖い存在になるということ。でも本人がいっぱいいっぱいなだけだからしょうがない。

決めつけてくる人がなんで嫌かって言ったら、自分の嫌な部分見てるみたいで見てられないってことだと思う。結局は自己嫌悪。決めつけるってことは、世の中見えてないことばかりなのに見えてるって言ってるようなもんだと思う。本当に恥ずかしい。自分の嫌な部分全然受け入れきれないけどしょうがないでいいのかな。

救い

普通に生きてるだけなんだけど、すごく辛いことがあるわけじゃなくても定期的に死にたくなることってある。2、3ヶ月に一回くらい。本当に死にたいというより、なんとなく死にたいって感じ。

たぶん自己肯定感がめちゃくちゃなくなってるからだと思う。それなりに目標に向かって頑張ってはいるはずだけど、結局まだなんも成し遂げられてないのかな〜とか。自分は無力だなと思う波がきて、周りを見て焦っちゃってそこからくる不安が気持ち悪くて、この気持ち悪さから解放されるんだったら死にたいな、みたいな気持ち。生きたい気持ちはそれに負けないくらい強いけど。

メンタル終わってきたら誰かを頼るべきなんだろうけど、そもそも人を信用しだしたのが最近すぎて相談しようと思えるまでに時間がかかる。だから、相談すること自体迷いながら連絡する。本当の友達はすぐ相談乗ってくれる、と思ってる最近は。相談乗って欲しいときに乗ってもらえなかったら、馬が合わないってことかもしれないなあ。そこは図々しくなってもいい気がしてきた。

信用してる友達はみんな生きることに関してかなり努力家だから、仲良くなれたのは自分が少しでも頑張ってるからだと思えばまずは頑張ってきたことは無駄じゃないのかなと。夢があるもの同士だと自ずと話す内容が未来の話になると思うから。そういう友達と話してる中で、自分が少しずつ良いと思える人間に変わっていくことで未来の自分がいる環境をどんどん良くすることができるかなって希望が持てるから自己肯定感回復できる。負の感情は簡単に連鎖するからこそ、こういう正の感情を連鎖させてくれる存在は貴重。お互いが成長することが喜びになる関係でいられることは幸せだな。そういう人間意外といっぱいいるから全然死ねない。

天気の子をみた(ネタバレあり)

実は、『君の名は』が自分の中ではあまりヒットしなかった。面白くなかったわけじゃなくて、アニメーションと劇中歌がすごくシンクロしていてそれだけでうるっときたし本当に綺麗な映画だと思った。でも私にはファンタジー過ぎちゃって、何か教訓を得られたかって言われるとあまり得られなかった。たぶん、私が映画をみたときに感動する基準が、映画をみる前と後で意識が変わるかどうかだからだと思う。一番大きかったのは、新海監督のメッセージはあってないようなもので、大衆受けを狙ってるなと感じたこと。私にとっては、『君の名は』はアニメーションと音楽のシンクロを楽しむ映画なんだ、という認識になった。

だから、『天気の子』は全然期待していなかった。テレビで放送されたときにみればいいやと思っていた。でも仲いい人たちはほとんどみにいっていて、口を揃えて面白かったと言っていた。『君の名は』とは全然違うとも言ってた。だから、騙されたと思って(?)『言の葉の庭』と『秒速5センチメートル』をみた。どちらともすごく刺さった。映画から、世の中にどうしてもこれを伝えなきゃみたいな感情がひしひしと伝わってきて、新海監督は商業としてニーズに合わせて物語を作る人じゃなくて、本当は自分の作りたいものを伝えたい熱い人だという認識に変わった。私がみた過去作品は2つとも『君の名は』と比べたらかなり地味で万人受けはしなさそうだと思ったし、『君の名は』をうまいこと利用して自分の考えを世の中に発信しようと考えていたならめちゃくちゃ頭がいいと思った、完全に私の想像だけど。

案の定(?)、『天気の子』は面白かった。大好きなまち新宿、歌舞伎町がちゃんと光の面と闇の面で描かれていたし、誇張しようとはせずちゃんと事実・現実として描かれていたところがまずとても好き。あとは、かなり幸せとは何かみたいなテーマに触れていた気がしたこと。新海監督は仏のような人なんじゃないかなって思った。作品中でも視野がすごく広く感じたし、エンドロール見ても日本人だけじゃなくて中国人や、なんて読むかわからないような名前の異国の人たちと一緒になって映画を作っていて、きっと周りの人をたくさん巻き込んで一緒に幸せになってるんじゃないかなって想像した。本当に全て憶測だけど。少なくとも、新海監督は私の名前も顔も知らないけど、映画を見ることで幸せな気持ちになったり幸せってなんだろうって考えたりしていて、同じ映画を自分だけじゃなくて知り合いがみんなみている状況があるからすごい。

ちなみに、ラストはハッピーエンドでもバッドエンドでもないと思った。自分にとっての幸せのきっかけは、自分以外の人が幸せになること以外ありえないと思う。人の幸せが自分の幸せみたいなフレーズとはまた別の話で。自分にとってだけの幸せだって思うのは錯覚で、きっとどっかしらに他人が絡んでる。大事な人が生きていることはもちろん幸せだし、大事な人が生きることによって大多数の人間に不都合が生じるのは心苦しいことでもあるし、そういう不都合も含めて運命だと考えれば全部しょうがないってことにもなるし、総合的に考えたときにはどちらかというとハッピーエンドだと思ってるけど白黒つけられないのが現実であって、すごくこの締めくくり方は好き。

めんどくさいけど

めんどくさい人が苦手。たぶん、正確にはその人めんどくさい部分が苦手。

例えば、色んな男の人と関係を持っていて、そのことで病んだり相談してくること。男遊び満喫してたらいいんだけど、そんなに辛そうなのにまだ遊ぶの…?って思うし。しかも相談することはいつも同じで、一向に改善も解決もしない。本人が辛そうだからこちらも気の毒だと思ってしまう。

あとは、自分のこと毒舌です、サバサバしてますって言う人。自分で言うことじゃないんだよな。何かを履き違えてる場合が多くて、何かを潔く否定することがいいと思っている、気がする。過去の自分にめちゃくちゃ思い当たる節があるけど、今思うのは否定する前に自分の常識を疑った方がいいということ。自分の思考はそんなに偉くなくて、一つの意見でしかないわけだし。そうしたらそんなに簡単にズバズバ否定なんかできない。

でも、めんどくさい人ほど思考が堂々巡りしやすくて病みやすいと思う。正直カウンセラーの資格をとるにあたっては、そういう思考こそ向き合わなきゃいけないんだろうなあ。程度が違うだけでみんなめんどくさい面はあるだろうし。しかも人それぞれ方向性の違うめんどくさい。真に受けたらこっちの精神がしんどくなるし、そういう人から話を聞くときは相手の感情に惑わされず事実を淡々と抜き取れるようになるのも大事なんだろうな。相談してくれた人のことで自分も一緒に病むことなく。それで、本心の中から相手に今言ってもいいことだけ選べるようになりたい。自分みたいなめんどくさい人をできるだけ見放したくない。

弱い

ここ一年くらいで意識高いって言われることが増えたけど、めちゃめちゃ強がってるからだと思う。あんまりいい意味で言われてないのもわかる。意識高い人って完璧しか認めなさそうだし、一緒にいたら完璧ばっか求められて疲れそうって思うし。

高校時代、意識高くて勉強たくさんしてて頭良くて人のこと見下す人がすごく嫌いだった。頭が良くなったらこんな風になっちゃうんだったら勉強したくない、って色々言い訳して勉強するよりギターばっかり弾いてた。長期休暇は、課題やったら一切勉強しなかった。今思えば、勉強はしとくべきだったなって思うけど。勉強ができなかったら、勉強ができて意地悪な人に太刀打ちできないから。

人に完璧を求めるような人間には絶対になりたくない。そもそも完璧は目指すものだし(ここで完璧!って思ったときには思考が止まってる)。目指すのは勝手だけど、人に強要していいものじゃない。強要されてしんどくなった経験があるからそう思う。多分人一倍気にしすぎる性格だし弱いから。自分がされて嫌だったこと、ないし嫌そうなことは人にしちゃダメなんだよなとつくづく思う、わかってても難しいことなんだけど。

絶対

絶対はないし、決めつけていいこともそんなにない。達観してるように見える人とか、強そうに見える人にありがちなのは、しょっちゅう断言すること。その断言してる内容に意見したって耳を傾けてくれなければ、それはもう考えてないのと一緒。達観してないし強くもないわ自分にとっての定義を考えてみるのは意味があることだけど、そんなの暫定的な定義でしかない。死ぬまで更新しなきゃ意味ない。

 

何かを決めつける絶対はあんまり好きじゃないけど、大事な人を癒したり勇気づけたりする絶対は好き。必要だと思う。絶対大丈夫とか絶対生きろとか。絶対なんてないからこそ、強い表現になる。中途半端に正論だと思ってること言って後悔するくらいなら、とりあえず不安になってる相手を安心させる方がいい。